謝らない上司は日本人の典型〜『菊と刀』を読んで
相変わらず、ルーズ・ベネディクト著 越智智之・越智道雄訳の『菊と刀』を勉強中。 今回は第八章の「汚名をすすぐ」を自分への理解のためにまとめたい。
前回第六章、七章では義務と義理に関してでした。第八章も「義理」について書いていますが、この章の義理は「自分の名前に対する義理」の事を取り上げています。
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ここまでを要約すると、結局日本人は階級序列を重んじていて、これは先祖崇拝を起点として江戸幕府や明治政府の時に定着し始めたと言っています。それを詳しく見ていくと、先祖への恩というものが根底にあり、一つは天皇(国)に対する恩と親、世間に対する恩がある。天皇や親に対しては義務という形で、恩を返すことになり、義務は返済上限がないので返続けないといけない。一方で世間に対する恩は義理という形で返済する。さらに、この義理には世間に対しての義理と自分の名前に対する義理が存在すると、ベネディクトは解釈しています。
世間への義理というのは非常に厄介で、たとえば結婚して相手の家に嫁ぐ場合、義理の家族になるように、自分は本意ではないが仕方なくその状況になり、相手の義理の家族に対しての恩を背負わなくてはいけない状況になります。このように世間に対しての義理というのは個人に対して非常に厄介な物なのです。以上が第八章までの私の解釈
プライドの事を言っているんだと思う
「自分の名前に対しての義理」というとピンとこないですが、多分これは「プライド」の事だと思います。プライドという言葉がどのくらいから日本で外来語として使われているかわかりませんが、第八章を読んでいると多分このことに相当するんだと思っています。
自分の名前に対することなので、この義理は恩への返済という枠からは外れており、あくまでも自分に対してだけに適応されているようです。ただ、その根底にはやはり世間への恩という概念があるようで、「自分の世評の輝きを保つ行為」だと言っています。つまり、世間の恩に対して恥じない行為ということだと思います。
この感情は中世のヨーロッパに色濃くあった感情だけれども、東洋人としては珍しいらしいです。(確かにそう言われるとヨーロッパの騎士団などに惹かれるあったりするのはそのためかもしれません。)
「世間の恩に対して恥じない行為」とは
では「世間の恩に対して恥じない行為」とは一体なんなのか。日本人はこの行為が非常に犠牲的(ストレイシズム)です。後の第十二章にある「子供は学ぶ」という章に出てきますが、日本人は小さい頃からこの犠牲的な精神を躾られます。多分、現代でも当人は気づかないかもしれませんが、この犠牲的な精神が植え付けられ続けています。
「武士は食わねど高楊枝」という言葉があります。これは武士たるもの腹が減っても、今さっき食ったばかりかのように楊枝を加えて平然を保つ事を言っています。このことからも実際はお腹が空いて仕方がないのに、それを澄まして、何事もないようにしているのはまさに自分を犠牲にして自分の世評の輝くを保った行為だと言えます。
この様に日本人は本当に馬鹿なプライドを常に持ち続けています。
元来攻撃的な民族
これに見られるように、日本人は階級が上になればなるほど、この世評を気にした行為を保ち続けています。その最たる奇行が『忠臣蔵』です。 忠臣蔵は赤穂藩藩主 浅野長矩が吉良義央に芋侍と馬鹿にされた事で、腹が立って切り付けてしまい、責任を取って切腹します。さらに、藩主が馬鹿にされた事を受けて家来47名が1年後に吉良邸に夜襲をかけ討ち取ります。さらに、その事件の騒ぎを収めるために家来たちは自害します。
たかが田舎武士と汚名を着せられただけなのに、こんな大ごとになるというのは、元来日本人は非常に攻撃的で、さらに、名前を汚されたことに対しては善悪関係なく、その義理を果たす事をします。これが日本人の持っている本質と言って良いのではないでしょうか?
善悪の区別は日本人に取ってそれほど関係がなく、目的に対して、特に自分の名前に対する義理や義務などが生じた場合、その手段を選ばず実行する国民性なんだと思います。この義理の濃度は階級が上がれば上がるほど濃くなっていきますが、低い階級でもその義理は持っています。
極力争いを避ける
この様に元来攻撃的な国民性なので、少しの事でも爆発してしまいます。なので、日本人はいつもこの爆発を避けるように仕込まれています。誰かが咎めたり、自分の中でその爆発を抑えたりするのです。その方法として「指摘しない」というのもその方法の一つだと言えます。
本の中で例を挙げているのは、たとえば教師とかでその教師の説明が間違っていて、その間違いを生徒から指摘された場合、欧米はその間違いに素直に謝れることが非常に重要になり評価が高くなりますが、日本の場合は、この指摘に対して謝ってしまうと自分の非になってしまい、自分の名前に対して義理が立たなくなるので、義理を立てるためにも謝らなくなり、相手を攻撃することになります。
そのため、間違いに気づいた生徒で道理(本の中での「其ノ所」)を弁えた生徒は、「指摘しない」という行為にでます。 日本では藩主の汚名を返上した家来や道理を弁えて上の人を立てた行為が評価されます。
つまり、日本では競争を最小限に抑えることが重要なんだと考えられています。
総理が「間違った事を言っている」とならないために、公文書を改竄し、一人の官僚がその犠牲に自分を追い詰めるのも、この馬鹿げた風習からだと言えます。
しかし、自分の中にもこれと同じ感情や考えがある事が、なんとも悲しくなります。