Noriyasu_Katano's blog

脳科学や量子力学、政治や戦争に関して、日々の感じた雑感を書いていきます。

日本人から見た日本人〜『空気の研究』を読んで

またまたつまらない内容だが、自分の備忘録のために。 『菊と刀』を読んでアメリカ人が分析する日本人が何となく理解できたので、今度は日本人から見た日本人を読み解いてみたい。山本七平の『空気の研究』は1977年に出版された本である。山本七平自身戦争を体験した人で、戦後数十年経って出版された本である。

この2冊は、日本人という研究対象を全く真逆の立場から書かれている。片方はアメリカ人の女性で人類文学者という立場で、戦後早い段階で出版されている。片や『空気の研究』は30年くらい経った後日本人の男性で兵士として戦争に参加した人物が書いている。しかし、2冊が捉えた日本人像は概念的に共通している点が多い。もちろん、山本七平が『菊と刀』を読んでいないという確証はないので、もしかしたら何らかの影響は受けている可能性は十分にある。

空気ってなに?

文春文庫の『空気の研究』は2018年に新装丁で出版され、2020年に第2印として発行されている。数十年経っても読み継がれているのは、日本人がいかに空気を読み続けているかがよく分かる。日本人にとっての空気とは一体何なのか、この本の冒頭でもそのことが書かれている。 山本七平が捉えた空気とは、「臨在感的対象に対する感情移入」ということである。この時点で何を言っているかよくわからないと思う。

臨在感的対象とは

どの国にもある神という存在は、言葉で「かみ」というもので、そのイメージは人それそれ違っている。さらに、その存在自体証明することができず実存するのかしないのかもわからない。しかし、信仰が深ければ深いほど存在しないものを感じることができる。臨在感とは何となく存在を感じてしまうことだと言っている。そして、日本人はこの臨在感を強く把握してしまう。さらに、空気とはこの臨在感の対象となるものへの強い感情移入だと山本は捉えている。

具体的には天皇の存在がわかりやすい。戦前の国民はあったこともない天皇を崇拝して、それが常に身近に存在し、常に自分を監視している状態と捉えてしまう。さらに、その存在に強く一方的な感情移入をしてしまっているということらしい。『菊と刀』では、これは皇恩と称して日本人がその習慣などから強く虐げられ自己犠牲の上に成り立っていると捉えている。

菊と刀』と『空気の研究』の相違点

冒頭でも述べたように『菊と刀』と『空気の研究』は概念的には同じような事を言っていると思うが、大きく食い違っている点がある。それが善悪の価値観の有無である。『菊と刀』の場合は、日本人は義理の返済が最重要課題であるため、善悪の価値観は欠落していると言っているが、『空気の研究』では、善悪は存在しているが、物事への善悪の見方が違っていると言っている。つまり、空気の研究では、日本人にも善悪の価値観は存在していると言っている。結果的に両者とも日本人は善悪がうまく機能していないことは同じである。

『空気の研究』的に日本人の善悪

日本人が日本人を研究しているので、日本人にも善悪くらいは存在していると言いたいのはよく分かる。しかし、山本が捉えている日本人の善悪の捉え方は対立する2つの事柄のそれぞれに善悪が存在するのではなく、それぞれどちらかが善でどちらかが悪として捉えがちだと言っている。 対立するそれぞれに善悪がある事を理解すれば、価値観が絶対化されないので空気に流されない判断ができるが、日本人の捉え方は、どちらかが絶対的な善で、どちらかが絶対的な悪と捉えてしまうため、どちらかかの感情移入した側の臨在感に囚われた空気に流された判断になってしまう。

つまり、空気に流されないで判断するためには固定倫理だと言っている。固定倫理とは物差しの定規のように絶対的な尺度の事である。しかし、この絶対的な尺度が実際に存在するとそれは非人間的なものになってしまう。今の価値観の言葉を使うと「公務員的な態度」「お役所仕事」と言われるもので、マニュアルに沿った判断ということだ。しかし皮肉にもこの固定倫理こそが空気に流されない判断だと言っている。

会議で水を差す状況

この「公務員的な態度」「お役所仕事」というものを毛嫌いする人も多いと思う。せっかくその場の雰囲気で盛り上がっているのに、「じゃぁ、明日用事があるから帰るわ」と言って空気を読まず帰ってしまう友人とかはまさにその状態だろう。 日本人の倫理観はこのような固定的な倫理ではなく、情況的倫理だと言っている。固定された物差しではなくゴムのようにその物差しの長さを変えられるけど、測っている数値は変わらないような倫理観なのである。その情況や立場などを元に物差しの長さが変わる。 物差しで測るためには常に元となる原点が必要であり、その原点は戦時中だと天皇になったり、会社だと社長や上司にあたることになる。その情況状況に合わせて原点に合わせて倫理観が変わっていく。これでは水をさすことができない。

水が差されても良い状況

結局、私の理解度が乏しく、本の中ではじゃぁどうすれば良いのかという明確な回答を読み取ることができなかった。ただ、何となくそうかと思おうのが、自由に水を差すことができる状況を作るのが重要というような事を言っている。ただ、その状況も自由であるからこそ水を差されることになり、結果的には消えてしまう。つまり、どんな状況でも空気と水が存在していて、それは物質的にも空気と水が欠かせないものである。自由を求めている人の多くはいつでも水をさせる自由を行使する空気を作ることで、さらに、その空気にも水をさせることが必要。

2020年に出版された本の帯には「誰もが空気を読み「忖度」する現代を予見した」と書かれているが、結局この本では空気を読むことは「悪い」象徴とされているが、そんなことではなく、常に空気と水が存在しているという事を言っているような気がした。

余談だが、『菊と刀』から比べると非常に難解な本である気がする。私の読解力が乏しいがゆえなのかわかりにくい。これが日本人の著者だからなのか時代的なものなのか、読み解くのが難しい。構成もさることながら、結論が不明確な感じがする。

偉そうなことは言えないが、「超入門」などと称してこの本を研究したりしているが、結果的に「だからどうしろ」という答えがこの本にあるわけではなく、ただただ言い回しやその当時の状況などが不明確だから本自体が難解になっているだけで、入門書を出すほどのものではないように思う。 さらに、結論はそんなに大した事を言っているようには思えない。個人的には『菊と刀』の方が全くよく日本人を解説していがると思う。