Noriyasu_Katano's blog

脳科学や量子力学、政治や戦争に関して、日々の感じた雑感を書いていきます。

日本人を日本人とたらしめる根源〜『菊と刀』を読んで

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今回は第十二章「子供は学ぶ」を勉強していきたいと思う。 今までは、日本人の人生観を見てきた。何度も言っているが、日本人は階級序列を非常に重んじてきた。それは東洋文化にある先祖崇拝の考えが江戸時代の士農工商で明確な序列が生まれ、さらに明治政府により天皇への確固たる恩を作り上げることで日本人の中に深く根付いたものである。

しかし、つくづく疑問に思うのが、なぜそれを国民は黙って受け入れてきたのかという点である。江戸時代などは幕府の力による強制的な形が強いが、明治時代の軍人勅令など、ある種国民自体も納得して受け入れてきた背景があると思う。誰も何も文句を言わず受け入れて、育んできてしまっている様な気がしている。

ルーズ・ベネディクトが指摘する日本の家庭教育

菊と刀は戦後発売された本である。その当時、ベネディクトが分析した日本人のこういった人生観の背景には家庭内での教育が強く影響していると言っている。 日本人の人生観は欧米の人生観とは真逆な曲線を描いている。欧米の場合、人生の中央に位置する、20代から40代が最も華やかで人生を楽しく自由に謳歌できる時期だと言えるが、日本人の場合、この年代が一番辛い時期だという。日本人の人生の中で一番自由で何者にも邪魔されず謳歌できる時期は幼児期と晩年だと言っている。特に幼児期は身も心も一番充実した時期だという。

恥を知らない時期

この感覚は今から比べるとだいぶ違和感を感じるが、しかし、よくよく紐解いていくと確かに、この分析が今の日本人の人生観や文化の礎を築いているように思う。 当時としては、幼児期は恥を知らないからある意味何をしても許される時期である。ちなみにここでいう幼児期とは6歳くらいまでの事を指している。男の子も女の子も同じように無邪気に振る舞うことができ、さらに、周りの大人も何も言わない時期。この頃、大人たちから注意される言葉は「危ないからよしなさい」「汚いからよしなさい」と言った具合だろう。まだまだ、制約としては軽い。

この時期を過ぎて6歳くらいになるとだんだんと世間に対しての義理を教え込まれる。兄弟同士の喧嘩でも、年配者は年少者に負けて上げることを強いられる。「お兄ちゃんなんだから」や「お姉ちゃんなんだから」などだろう。さらに家族からも駄々をこねた際には、「自分達の子供ではない」「おいて行ってしまおう」というように、社会の厳しさを揶揄いながら教える。 さらに、家庭では父親が家の中で一番強い存在だというのも徐々に理解していく。

血縁でも厳しい態度

さらに成長していくと社会に対して恥をかいた際の血縁の態度も世界とは違った対応をする。例えば喧嘩して誰かを泣かしたなど社会に対して恥をかいてしまった場合、血縁である親は子供に強く叱り子供を庇うどころか見放す事をする。このことは世界でも類を見ないと本の中では社会学者ジェフリー・ゴーラーの言葉を引用している。

社会学的に見ても尋常ではないのだ。拡大家族やその他の小さな社会集団が重要な役割を担うたいていの社会では、自分の集団の構成員が他の集団の構成員の非難や攻撃にさらされた場合、その集団は団結して仲間を守るのが通常だ。(中略)しかし日本においては、その逆が真相のようだ。自分の集団の支援を当てにできるのは、他の集団からその当人が認められている場合のみである。

つまり、他人からある程度認められないと、自分の家族からも見放されるという状況である。ドラマのストーリーでよくある、家族全員が東大に行っていて、お兄ちゃんだけが東大に落っこってしまったシチュエーションで、本来家族は支えるべきだが、よくあるのが家族から見捨てられつつ浪人生を続けるような感じだろう。

これがどうして発生するかというと、「外部の世界」からの承認が他のいかなる物と比較しても非常に重要だからだろう。

「弱いものの夕暮れ、さらに弱いものを叩く」

10歳を迎える頃にはある程度覚悟を決める必要がある。これまでは女性も男性も変わらず躾けられてきたが、10歳ごろから明確に男と女が別扱いされていく。女性はそれまで仲良く遊んでいた男の子たとと別れ、男は不道徳な物と教わっていく。1940年だいごろだと学校でも9歳ごろから男子組と女子組に分かれるようで、男性は男性同士つるみはじめ、女性を排除しつつ、お互いの団結力を強めていく。

男子はこの頃から、上級生から下級生に対していじめが始まる。ベネディクトはこの抑圧した状況が日本にとって非常に良くない習わしだと言っている。いじめられた下級生は報復を誓いながら過ごしていく、いつか報復することを常に思っていくが、それができず、その鬱憤にさらに下級生を虐めることになる。これが、学校を卒業して社会に入っても同じように発生している。自分の名前(プライド)に対する義理を果たすために、相手に報復することは徳目を積むことであり、全く恥じることではないから、心置き無く復讐の念を募らせることになる。 上級生は下級生を侮辱し、誹謗中傷する。自尊心が強ければ強いほど残忍になっていく。

この構図は、この時期から始まったものではなく、日本の過去の歴史からずっと抱えてきて文化になってきている。 ベネディクトはこのいじめの構図を戦後復興の時期になくすことを強く願っていた。

誰も教えてくれない女性の取説

幼少期から始まる日本人の教育で、唯一と言っていいほど年配者からの教えがないのが性の領域だと言っている。確かに自分も親としてこの分野を教えることがなかなか難しい。なぜなら、自分の親も何も教えてくれなかったからだ。ではどうして、そうなってしまったのか、これは第九章でも書いたが、日本人にとって自己の満足を満たすことは何の価値もなく徳目がない。恋愛はまさに自己の満足でしかないから教える必要のないことなのである。この考えが根付いているから、日本人の男性は内気に成りがちになり、さらに、それを助長するように、女性は内気な男性が良い男性だと教え込まれる。

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我慢の裏腹にあるセクハラ

女性は貞節を守ことが重要だと教え込まれる。結婚するまで貞節を守り、結婚しても夫が与てくれる性的な満足だけに応じるなければいけないと教えられるので、夫が他の女性を作った場合でも、妻は自慰行為をして我慢しなければいけない。しかし、この反動からか子供を産んだ後の女性は徐々に卑猥さが解放されていくと言われている。 多分、このことが高度成長期期に女性に対するハラスメントが横行した背景にあるのではと思う。

まとめ

ベネディクトはこの章で日本人の誰しもが強く一番自由だった幼児期が心の中で残っていると言っている。そこから徐々に恥に対する世間の重圧が個人個人にのしかかってくる。これは、表面的な時期や態度は違えど、今の日本人にも共通するところがあるように思う。この本の当時は幼児期だったかもしれないが、現代では、中学や高校時代がこの自由を謳歌できる時期なのではと思った。日本文化を代表する漫画では高校生を題材にした作品が多い。これは一番自由で何の制約もなく、身も心も充足した時代への憧れからではないかと思う。

さらに、いじめに関しても形や関わっている人の心情が変わってはいるが、立場の強いものが弱いものを暴力的や陰湿的に虐めるのは何も変わっていない。日本人が自ら築き上げてきた、選択してきた日本文化は非常に今の現代でも厳しいものだと言える。多分多くの人は気づいていなく、そこまで分析する必要ないものと思っているかもしれないが、この様に分析して紐解いていくと日本人が本当に精神的に、ある意味馬鹿みたいに追い込みながら人生を送っていることがよくわかる。