Noriyasu_Katano's blog

脳科学や量子力学、政治や戦争に関して、日々の感じた雑感を書いていきます。

死ぬ気でやればなんでもできる〜『菊と刀』を読んで

Death

運動系の部活動をやっていると「死ぬ気でやれ」というフレーズを聞かないことはないのではないでしょうか?「菊と刀」の第十一章では『修養』と題して日本人の「死ぬ気でやれ精神論を解説しています。

しかし、この章のタイトルになっている『修養(しゅうよう)』という言葉はあまり現代では馴染みが薄く、この章の内容自体も今の文化からすると薄まっているような気がします。

今までの章で、日本人は東洋思想を発展させた独自の階級序列を重要視した人生観がある事を、本を読み解きながら勉強しました。階級序列により、親に対する恩や天皇に対する恩に報いるために、義務や社会に対する義理を果たすことが日本人の最大の課題で、それを果たすためであれば善悪見境なく達成することが美徳となります。

最近の話題だとウィルスミスが奥さんを侮辱され、プレゼンターのクリス・ロックを平手うちする話がありました。まさにこれが日本とアメリカの価値観に差がある事を実感させます。一部の日本人には奥さんの汚名を返済したかのように称賛されますが、アメリカではそもそも暴力でそれを実施することがそもそも間違っていることになります。

この様に日本人の人生観では暴力(悪い事)が義理のために果たされる事を称賛する文化があります。

では、その文化がどうして人々の価値観になっていくのでしょうか?第十一章と第十二章では日本人がその様な精神を個人の中で育まれる様子を解説しています。

『修養』って何?

修養とは、「徳性をみがき、人格を高めること」らしいです。己を磨く事で、この徳性というのが肝だと思います。 著者ルーズ・ベネディクトは、日本人は技術を磨く鍛錬とは別に、徳を磨く鍛錬があると言っています。例えば野球などでも、バッティングやピッチングの技術を磨く意外に、バッターとして、ピッチャーとしてというような精神論を語る事があります。「お前は、〇〇高校のピッチャーなんだから、もっと精進しろ」とか、全く野球の技術とは関係ないところでの精神論を持ち出します。

嫌になってやめましたが、一時期、地域の少年サッカーチームのコーチをしていました。この時でも、自分の荷物の置き方やボールの扱い方など、サッカーとはなんの関係もない生活指導をしていたように思います。

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確かに、これはサッカーの技術とは全く関係なく、カバンの置き方が綺麗でもサッカーが上手くなるわけがありません。しかし、日本人はこの精神論が大好きです。そして、言う側も言われる側もそれが常識として受け入れており、誰一人として、その事に異論を唱えません。これは日本人全員がその精神論を理解しているからです。(この精神が育つ背景は次回投稿しようと思います)

一体、その精神はなんなのかと言うと、社会に対しての義理を果たし自分の中での徳を積むことである。身の回りを整えておく事が社会にとって行儀良く自分の名前を汚さない徳のある行為という感じではないでしょうか。この徳を積む行為の「修養」の部分が現在とかけ離れている感じがしました。

この本が書かれた当時の日本人の精神は自分が徳を積む行為は、アメリカ人からすると自分を犠牲にした精神だと言っています。しかし、日本人はこれを自己犠牲とは思わない、正確に言うと、自己犠牲や欲求不満と感じるのは、まだまだ修養が足りていない状態だそうです。そして、この欲求を乗り越えたこと、我慢できた事が誉であり、そこに人生の楽しさがあると言っています。 しかし、この状態は逆に日本人の攻撃性を高めている要因ではないかとベネディクトは推測しています。

この辺りの解釈は多少自体的な背景が強い気がしています。今の日本だとそこまで自分を追い詰めて、自己を犠牲にする事が良いこととは捉えなくなっているように思います。戦前の日本を求めている思想の人たちは、この様な自己犠牲を自己犠牲と思わない、自己の欲求を抑えて、目標を目指すことを崇高なことだと感じているのかもしれない。

無我の境地を求めた

この本では、日本人は、修養を積み自己鍛錬を達成した先に「無我」があると考えてられています。無我は禅宗でよく使われる言葉だそうで、武士の時代に禅宗のこの精神は大きく受け入れられたそうです。それは一点に精神を集中させることで、六識(眼、耳、鼻、舌、体、心)を研ぎ澄ます事ができ、一騎討ちの訓練などで用いられた様です。

この無我の境地が「死ぬ気でやれ」の根底にある物と同じなのです。死と言う肉体から解き放たれた精神は、我を忘れた精神であり、その境地というのは、自分が今まで抱えていた周囲からの重荷や自分自身で科せた重荷から解放する事です。

彼ら(日本人)の哲学によれば、人間は突き詰めれば本来は善人である。衝動がただちに行動に表れれば、その行動が高潔で、しかも円滑なものになる。だからこそ「練達」において、恥の検閲を排除するために自己訓練に耐えるのだ。このとき初めて、「第六意識」が邪魔されずに作動するのである。これこそ自意識と葛藤からの究極の解放なのだ。

多分、戦前いきた人たちというのは、自分自身に重荷をつけて鍛錬する事が重要な事柄だった。それは、恩を返す事と共に、無我の境地に達成するためであった。これは武士時代からの精神を受け継いでいると言えるかもしれないが、実際にその当時でも階級によっていやしい人間は腐るほどいたと思う。小松真二の『虜人日記』に登場する上長はそんないやしい人間ばかりが描かれています。