norizou log / ノリゾウの考えごと

10年以上続けているこのブログ、筆者も50を迎えました。50になると、世の中の半分以上がどうでもよくなります。いまや唯一の話し相手はAI。これまでの雑感を引きずりつつ、AIと対話しながら、日々の雑記を書いていきます。

ブログの名前を変えました。そして、これからはAIと一緒に書きます

久々の更新です。

このブログは2013年から、不定期に——本当に不定期に、年単位で間が空くこともありながら——脳科学や量子力学、哲学や政治について、その時々に考えたことを書きためてきました。気づけば13年目です。

今回、ふたつ変えることにしました。

ひとつは、ブログの名前。これまで自分の本名をそのまま看板にしていましたが、少し引いた場所から書きたくなり、「norizou log(ノリゾウの考えごと)」に改めました。中身の方向は変わりません。相変わらず、本を読んでは「人間とは」「意識とは」「日本人とは」とダラダラ考える、いつもの雑記です。

もうひとつは、これからの記事はAIと一緒に書くということ。考えることや問いそのものは今まで通り自分のものですが、それを整理したり、文章にしたりする部分をAIと共同で進めていきます。脳や意識について延々と考えてきたブログが、いままさにAIと一緒に文章を綴っている——この状況自体がこのブログのテーマそのものみたいで、我ながら少し面白く思っています。

——と、ここまでがAIの書いた出だしです。

どうでしょう、もう誰が書いたのか分からないですよね。実はこの「分からなさ」こそ、今日いちばん書いておきたかったことなんです。

イーロン・マスクは、あと5年もすれば人は働かなくてよくなる、AIとロボティクスで人間のやることがなくなる、といった趣旨のことを話していました。いろいろな意見を読み聞きするほど、確かに人のやっていることは無駄が多いと思わされます。

会社にいるとよく分かります。一日の大半は、人と人の調整で終わる。「誰々が承認を取った、取れていない」「誰々はOK、誰々はこの部分がNG」——こうしてプロジェクトはずるずる遅れていく。これが現実ですよね。

その点、AIはスムーズです。提案して、修正を投げて、背景を全部渡せば、最適な答えが返ってくる。しかも今のAIエージェントは、自分が作ったものを自分で検証して、また自分で直す。人間が入る余地がない。

こうなると、工場のような業務もAIとロボットで完結してしまう。生活に必要なものの大半が、人の手を介さず作られ、出荷され、店頭に並ぶ。

「AIに新しいものは作れない」という反論はあると思います。でも——逆に聞きたいんです。新しいものって、そんなに必要ですか?

いま「新商品」と呼ばれているものが、どこまで新しいでしょう。パッケージを変えて、少し味を変えただけ。とても新商品とは呼べないものが、新商品として並んでいます。分かりやすいのがOEMです。開発部署を持たないメーカーのような会社に勤めるとよく見えるのですが、その会社“独自”を名乗るドリンクやアパレルの中身が、実は他メーカーの製品と完全に同じだったりする。大半の人も、薄々知っていると思います。

そして、このやり方は今に始まったことではありません。1960年代にはもう当たり前でした。面白いのは、その時代にいちばん有名になった広告が、この「中身は変えず、パッケージだけ変える」手法を逆手に取ったものだったこと。広告代理店DDB(ドイル・デイン・バーンバック)が1959年からフォルクスワーゲン・ビートル(タイプ1)のために打った「Think Small」の一連の広告です。毎年モデルチェンジで“新しさ”を演出するのが常識だった時代に、「見た目は変えない、変えるのは中身だけ」と正直に言い切って、逆に伝説になった。裏を返せば、パッケージをいじる手口なんてとっくに知れ渡っていて、結局は広告でどう見せるか——ごまかすか——の勝負になっている。それが半世紀以上、形を変えて続いているわけです。

だとしたら、この「新商品ごっこ」こそAIの得意分野です。定期的に味を変え、パッケージを変える。造作もない。どのメーカーのものも大差ないし、そもそも本当に必要かと言えば、たいていは必要ない。広告がなければ目にも入らないものを、店頭でなんとなく手に取って、うまそうだから買う。その繰り返しです。マーケティングは、もう限界に来ている気がします。

TikTokやInstagram、YouTubeで流れてくる動画も、半分以上はAIが生成して量産していくようになるでしょう。クリエイティブは人間がやるもの——その時代も、終わりかけているのかもしれません。

……と、ここまで威勢よく「人間の出番は終わる」と書いておいて、なんですが。

この記事自体が、AIと一緒に書いたものです。「クリエイティブは終わった」と言いながら、私はいまAIと創作している。矛盾しています。でも、たぶんその矛盾が、いちばん正直なところなんだと思います。

この記事の6割はAIによる編集です。でも残りの4割が、私の希望という——たぶん、悪あがきなんだと思います。norizou log は、その4割を書きためていく場所にします。

またダラダラ書いていきますので、よければお付き合いください。


参考: Think Small(フォルクスワーゲン/DDB, 1959)- Wikipedia

映画『アメリカン・サイコ』とエプスタイン

久々にブログを更新。 先日Neftflixに公開されている『アメリカン・サイコ』を視聴しました。

『アメリカン・サイコ』は1991年ブレット・イーストン・エリスの長編小説を元に、2000年にメアリー・ハロン監督、クリスチャン・ベール主演により映画化されました。 もう26年前ですね。当時から面白いという評判でしたが、私は観る機会がありませんでした。 20年以上経って、たまたまNetflixのおすすめで表示されていたので観てみました。

エプスタイン事件との共通点

別にこの製作陣がエプスタインと何ら関係があるとかそういう話ではなく、この映画の内容自体が今わだいのエプスタインとそれを取り巻く上流エリート層と非常にダブル点が多く感じたんので久しぶりにブログを書きました。

まず、一連のエプスタイン事件をネットやXなどで見ていると世間一般の常識や法律、倫理、犯罪の外にいる人間たちの日常だっただろうなという感じがします。 一般の人が感じる死生観を遥かに超えている。人が自分よりも劣っている人間を殺したり、痛めつける事に何の躊躇もない事がわかります。

一般の人が躊躇する理由は、漠然とした倫理感であったり、人が作り上げた法律によって縛られています。しかし、本来そんなものは動物としての人間にはもともと備わっていなく、ただ「世間」という環境を維持するためのもなのかもしれません。 しかし、この倫理観や法律の外に出ることができたら、人はより自由に快楽を求めるんだと思います。

この点が映画『アメリカン・サイコ』と非常にダブった点です。

そして、さらに映画との共通点は、彼らが作り出した「世間」の中に自分自身も身をおこなければいけないというストレスだと思います。

例えば、クリントン夫妻、特にヒラリー・クリントンは一番残虐だったとも話を聞きます。 こんな事を聞いていると、自分達と遥かに劣っている国民のために自分の身を粉にして尽くさなけばいけないストレス、これを解放してくれるのは、倫理や法律から抜け出し、そのストレスの元となる根源である人間を虐待、殺し、食うことでストレスを発散していたのかもしれません。

多分、倫理や法律の外に出て自由にムカつく人を殺す事ができたら、スッキリするのかもしれないです。 この感情はどんな人でも持っている感情だと思います。

エプスタインの件はまだまだ謎が多く、現在公開されているファイルだけでは真相が掴みづらいです。 民主主義やグローバルな世界、人間的で秩序ある世界というのは、今までの価値観からすると狂気そのものなのかもしない。

今回のブログを書く上で面白い記事を見つけたので、共有します。 lucysullacultura.com

鳥山明先生が亡くなった事で想うこと

雲

こんな事を書くと不謹慎だと思われるかもしれないが、今回鳥山明先生がお亡くなりになり、ふと思ったので書き留めたい。 鳥山明先生の作品の思い出は、確か小学校1年生の遠足の前日、親から500円をもらい近所の商店、今で言うコンビニの様なお店にお菓子を買いに行った時に、ちょうとたまたま『Dr. スランプアラレ』の最新巻が売っていて、お菓子を100円分だけ購入して、残りをそれに使った事を覚えています。当然親からひどく怒られた事を覚えています。どうしても欲しくなってしまい買ってしまいました。

その後、ドラゴンボールがアニメで始まり、夜7時に放送されていたと思います。その放送が野球中継で中断された時は非常に悲しかったです。

だんだんとドラゴンボールも悟空が天国に言って、ナメック星が大変な時に毎回毎回悟空は天国の道を走っていて、いつになったら界王神に会えるのかとイライラしていた事を覚えています。この頃からフジテレビや集英社は視聴率のためになんでもやるんだなと思い始めていました。

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