Noriyasu_Katano's blog

脳科学や量子力学、政治や戦争に関して、日々の感じた雑感を書いていきます。

日本人には善悪の考えが欠落している〜『菊と刀』を読んで

Angels & Demons

相変わらず、日本人についてルース・ベネディクトの『菊と刀』を元に考察していこうと思う。今回は第九章で「人情の領域」の話。 第九章はタイトル通り日本人の「情」の話で、比較的わかりやすい章だと思う。 第八章までは、恩とか義務、義理の話をしており、これ以外に人として持っている感情の部分。

この章の冒頭が日本人の弱さを明確に表現しているように思う。

日本人の道徳律のように、極端までの報恩と厳しい自制心を要求する道徳律なら、個人的な欲望に対しては、終始一貫、人の胸中から根こそぎにすべき悪徳という烙印を押してきたとしてもおかしくない。これこそ典型的な仏教の教義である。だから日本の道徳律が五感の快楽に対して非常にオープンであるのは二重の驚きだ。

今までの章のように、極端なまでに義理を立て、さらに自らもその義理を立てるために犠牲にしているにもかかわらず、快楽に対してはオープンだと言っている。確かに、日本はお寺が多いので仏教をある程度重じている。そこから考えると仏教国と言っても過言ではないだろう。しかし、性欲などには比較的オープンで、AVとかの文化が発展している。その他にも飲酒に関しても寛大である。今はコロナ時期なので騒ぐことも珍しい光景になっているが、コロナ以前はなんだかんだ理由をつけて大騒ぎする傾向はある。 つまり、基本的な考えは仏教国なんだけど、倫理観は仏教から大きく逸脱していると言える。

快楽すらも教え込まれる

ベネディクトは日本人の快楽として、「入浴」「睡眠」「食事」「性欲」「酒」を取り上げている。 入浴はよくは、確かに温泉が日本の文化の一つと言われる側面もあり、日本人は入浴に対して極めてきた気がする。裸で湯船にゆっくり浸かるのは快楽であり、そのために日本のお風呂というのは発展してきた。しかし、この反面、戦前や戦後には冷水を浴びる文化もあった。数年前の宮藤官九郎NHK大河ドラマでも主人公が冷水を浴びるシーンがある。冷水によって体を清めるという感覚なんだと思う。 さらに、睡眠に対しても日本人は貪欲に努めている。電車とか立ったままでも寝ている人がいるように日本人は時間さえあれば眠る傾向があるが、その反面容易に睡眠を犠牲にする傾向もある。疲れをとるという事を目的で色々な場面で、どんな姿勢でも眠れるのに、ちゃんと眠って翌日に疲れを残さないという考えには至らない。 本の中では、1934年から1年間日本に配属されたハロルド・ダウド大佐とテシマ大尉の話が出ている。

平和時の訓練で、部隊は「三日二晩睡眠を抜きの行軍を二回行ったが、その間は何回かあった十分間の休憩の間か、このひどい訓練のわずかな合間にうとうとするだけだった。ときには行軍中、歩きながら眠る者までいた。ある若い少尉など、眠りこけたまま道端に積まれた材木にもろに突っ込んで、大笑いになったものだ」。やっと野営地を引き払った後でも 誰もすぐ眠るわけにはいかなった。歩哨やパトロールの任務につかされたのだ。「でもどうしてせめて一部の兵士くらいは眠らせてやらないのかね?」と、私が聞くと、大尉は「とんでもありません!」と答えた「そんな必要はありません。眠り方なんて、連中はちゃんと知っております。眠らないでいる訓練こそが必要であります」。

食事に関しては前回の内容に書いたように、快楽でありながら、我慢することを強いられている。さらに「早食い」や「大食い」同様に、食べる事をコントロールして制御できることが重要な要素の一つになっている

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これらのように、日本人は快楽をコントロールすることが求められてきている。

性欲に関しても同様で、結婚は恋愛感情では結婚していなかった。今でこそ恋愛の先に結婚というイメージがあるが、当時は決められた結婚があり、子供を作っていた。さらに妾は当然の文化としてあり、奥さんもその事を理解しているのが習わしである。恋愛というのをコントロールし、愛人の領域と妻の領域を制御することが求められていた。その観点から自慰行為は制御できる快楽として寛大に受け入れられている。 そして、同性愛に関しても同様に当時は快楽の一つに挙げられている。結婚という世間に対する義理は果たしているため、それ以外の快楽をコントロールできる範囲では許されていたと思う。 しかし、同性愛の場合、女型になるのは恥とされている。この考えが男性の威厳に関わる話なんだと思う。

善悪ではなく「穏やか」か「荒ぶる」か

この様に日本人の根底には快楽を楽しむことにある程度寛容だと言えるが、あくまでもそれを自制することが求められていた。一人の人間の中で快楽を切り分ける境界線が存在し、それを切り分けることが求められていると言える。 西洋人の場合は肉体(快楽に溺れる感情)と精神(快楽を制御する感情)が対極して、どちらかが相手を凌駕しようと絶え間なく争っていると考えているが、日本人の場合は肉体と精神は争うものではなく、肉体は悪ではなく、それを受け入れるものだと考えている。 しかし、この事はある意味「肉体(悪)」を見極める能力が欠落していると言える。 この善悪でない価値観を持っているのは、日本人が昔から「和御魂」と「荒御魂」の二つの魂を人間は持っていると言う信仰からきていると言っている。「和御魂」は穏やかな時(魂)で「荒御魂」は荒ぶる時(魂)で、人生はこの二つがそれぞれの時に現れていると言う考え。

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これが、人間だけではなく国家にもその価値観は広がっていると言っている。

日本人は結局、性善説性悪説

この「穏やか」か「荒ぶる」かの考えは、時期を示している。つまり善悪での判断は日本人には持ちえていないし、その価値観で物事を捉えることができない。「性善説」か「性悪説」かの問いがあり、政治などを批判する人の中には「結局日本人は性善説だ」と言うけれど、そもそも善も悪も持っていないのが正しい考えなのかもしれない。仏教の中にある誰しもが仏になるという考えは広く広がっている様に、本当の悪人はいなく「みんな仲良く」と言うのはこういう観点から来ているのかもしれない。

どうしてこうなった?

この価値観を選んできたのはどうしてなのか。本の中では「恩に報いる」事が最重要課題とされてきたためだと言っている。恩に報いる行為であれば西洋人から見た「悪い事」も関係がないということだ。それは、個人的な欲望や快楽を犠牲にすることで、幸福の追求を人生の目標などする事は不道徳極まりない事だと言える。

このブログを書く上で何度もこの章を読み解いてみたけど、確かに今の日本で「嫌な面」とされる価値観、例えばサービス残業や不倫の問題とかあらゆる日本の嫌な面の根源になっているのはこう言うところからなのかもしれない。 一見、人間には悪い面と良い面があり、それを共存させてわかりあると言うのは良さそうな価値観に思えるが、しかし、記述したように「悪い面を見ない」と言う文化を作り上げたのもその考えが元凶なのかもしれない。