南スーダンに派遣された兵士の日報が問題になっている。今更的な感じもするが、野党はここぞとばかり揚げ足を取り始め、メディアも視聴率が稼げるから取り上げる。そして私も、話題にさせてもらう。
この問題、2011年の野田内閣時代に内戦が勃発していた南スーダンに平和協力の目的で自衛隊が派遣された。問題になっているのは、そもそも自衛の目的で設立された自衛隊が、自国の自衛(防衛)以外で活動することが違うという点だ。
確かに、日本国憲法ができた当時、自衛自体もできないという案も出ていた。しかし、当時の吉田内閣が自衛権を残したと言われている。そのため、いくら安全でも紛争地域に派遣されることは自衛と大きくかけ離れている。
しかし、日本の外交的な観点で、他国が自国ではなく全く関係ない地域に平和協力をしているのに日本が参加しないのはどうなのかという点で派遣を決行した。戦闘に巻き込まれることはなくあくまで平和活動というのが当時の言い分らしい。
言葉が気になる日本人
私が問題にしたいのは、派遣されたことではなく、それを問う問題の切り口だ。バカなマスメディアは国民をバカにしているため、日報に書かれている「戦闘」という言葉をただ追っているだけだ。野党もお粗末で、結果的にそこでしか追求することができない。しかし、本来考えなくてはいけないのは、「自衛隊」という機関のあり方と「自衛」の解釈だ。
全くそこに触れようとせず、お得意の言った/言わないに執着してしまっている。なんで、そうなのか。そこを推測すると、それは単純に次の選挙しか見ていないからだ。次の選挙で議席を稼ぐために、与党を追求して「私たちは国民のために働いていますよ。与党は間違ったことをしてますよ」と訴えているだけだ。
100歩譲って、選挙に執着することは、確かに自らの考える日本を作るために必要だとしよう。しかし、こんなことが今までどのくらい起きただろうか。40年生きてい私でもこの光景や状況は一向に変わらない。結局数週間たつと別の問題が発生して、そちらに話題が映るだけだ。なんで、同じなのかつくづく疑問に思った。
なんで、日本の政治家はいつも言った/言わないに執着するのか。
身近にもいるよね
よくよく考えると、日本の政治家だけでなく、身近にもこういう人がいる。なんで、こういう人たちは本質を見ようとせず、言葉の表層的なことしか気にならないのか。こらは、本質がよくわかっていないか、面倒なことがしたくないのではないだろうか。
よくわからないというのは、勉強してくれとしか言えない。大抵人に対して怒りの感情を持って意見をいう人は、その人の状況を把握、理解していない状態がある。私もそれは感じる。よくよく、話を聞くとそれほど怒ることでもないと、後々恥ずかしくなる。
なので、ちゃんと勉強して、相手の意見をよく聞けと思う。
2つ目の面倒だからが一番怖い。冒頭の動画でもそうだが、今回のことから自衛隊員に対して上長から「戦闘」という言葉を慎重にという話があったようだ。
しかし、これはよくよく考えると、大戦で日本が負けた大きな原因の一つではないだろうか?上長の機嫌を取るために本当の情報を話さなかったことと同じ状態になっていると言える。
ビジネスでも上長に説明するのが面倒だから、言い回しを変えて、本来言いたいことを曲げて言っている状態がある。多分誰しもそうで、私ももれなくその類だ。
なんで、上司の機嫌を機にするの?
なぜ、上司に自分の言いたいことが言えないのか。面倒になるのはどんな理由があるのか。多分それは今回のことと一緒だ。どうしても表層的な「言葉」を気にしてしまう。「あなた、あの時ああ言いましたよね。」これが言いたいだけだ。
人の記憶がどれほど不安定なものなのかを理解している人は、この言い回しは使わないだろう。そして、そもそも、これは本来の問題から大きくかけ離れている。
今回も重要なのは、日本の「自衛」という考えの解釈である。そこかれ目を背けさせているだけでしかない。これが日本語の落とし穴なのだろうか。どうしても日本語を使用しているため、自分の理解が他人と同じだという幻想を描いてしまうのではないだろうか。日本語はツール(道具)でしかなく、あくまでも物事を伝えるための手段でしかなく、それを使ったからと言って伝わることは偶然でしかない。
最後に、来ない自民党を攻めている民進党も、すでに当時自分たちの代表が決めたことをすでに忘れていることを自覚して欲しい。
アフリカ紛争国スーダンの復興にかける 復興支援1500日の記録
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