2018年8月11日猛暑が続く中地元の秦野で稲荷木遺跡の第二回報告会があるということで、参加しに行ってきました。
前回からさらに規模を広げ調査が行われた様です。
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残念なことに前回発掘調査が行なわれた場所はすでに新しい道となってしまい、埋め立てられてしまいました。
今回はそこから300から500メートルくらい降ったところまで発掘調査の面積を広げられていました。
150年の建設様式の変化
今回のポイントとなるのは、多くの土器や土偶、石棒などが見つかったりいくつかの珍しい住居跡や墓跡の様なものも発見されていました。
先の報告でもいくつか住居あとは見つかっているのですが、今回見つかった住居跡の特徴としては、非常に近い場所で縄文時代前期の居住跡と、そこから150年くらいたった後期の居住跡が見つかったことです。
その当時の寿命などから考えると、3世代くらいの離れがあるのではないでしょうか。近い場所で見つかったので、住居の建築様式が変わっていることもわかった様です。
縄文前期の住居では、石を多くの使用して住居の入口から周辺を全て石で囲って作っていましたが、150年経つと石の数は少なくなり柱を立てていた穴が多く見つかった様です。
つまり、石を使うことから木を中心にした住居になっていった様です。
関東では珍しい墓跡の様なあと
そして、私なりに興味を惹かれたのが、墓跡の様なあとが見つかったことが面白いと思いました。
これは、関東では非常に珍しく、長野や群馬あたりでみられる跡らしいです。
大きな石を立てて設置され、その周りを平らな石で過去組む様に敷きつめられていました。さらに、その墓跡群の近くには、サークル状に大きな石が立てられ祭壇を行なっていた様な場所が見つかっています。
石棒の発掘などから、この場所で何らかの儀式が行なわれていたと思われています。
本当にそこがお墓なのから、それぞれの石の下を掘って調査が必要になる様ですが、遠く長野や群馬でも同じ様なものが見つかっているので遺骨が眠っているかもしれません。
集落を守っていた協会守り
最後に話があったのが調査エリアの一番下流側にあった場所です。
これは、石が壁の様に積まれてその中央に大きな住居跡が壁と繋がる様に作られていました。
冒頭の写真がまさにその場所になります。
画像の中央で調査員の方が話されており、その周りに石が積まれています。さらに、画像の手前から、奥にかけて一列に石垣が作られています。
話では、ここは集落の境界になっており、その門番の様に警備の住居だったのではと話されていました。住居の入口は調査員が向いている方角にあるので、調査員の背中側がやはり集落となります。
時の流れと文化の流れ
最初の住居あとなど、今から考えると石を減らし木材を増やしただけの変化ですが、その変化に150年かかっていることに驚かされます。石を減らすという変化が当時どれほど画期的な変化だったかわかりませし、その変化に対する時間も長いように感じますが、今も昔も人は常に変化をしてより良い方法を常に考えていたんだと感じました。