東京医科大で女子受験生の採点を一律で減点していることが発覚した。
これに対して、サンジャポのレギュラー西川女史が興味深い発言をして話題に挙がっている。「そもそも、女性の方が優秀で、女性を全て合格にしてしまうと眼科医と皮膚科医だらけになってしまう。(略)女性と男性の役割が違うから、(東京医科大のとった行動は)当たり前」と発言している。
このことが数日頭に残り考えていた。
男女の肉体レベルで差がある
当然のことながら、男性と女性では筋肉のつき方が違い、体内に流れるホルモンも違っている。なので、西川氏の発言は至極当然だと思っている。つまり、男性と女性には差がある。生物界でもそれぞれの性の役割はまるで違う。
また、この事件の以前にも自民党議員(2018年現在)杉田水脈議員の同性愛者には生産性がない発言も重なり、性に関する差別が賑わっている。
話がそれるが、この発言にも面白い意見がありこの古谷氏の記事では、新しい人権を増やすことで公務員の仕事が忙しくなる=生産性が上がらなくなるという。
確かに、新しい何かは面倒なことで大変なことだ、かと言って人権までも同じ価値観に押し込むのはおかしな話だ。
脱線してしまったが、昨今巷を「男女」や「差別」と言ったキーワードが賑わっている。
結局差別って
そこで、色々と考えていた、LGBTの方(この言い方にも違和感を感じるが)は一つの価値感であり、個性として受け入れることができる。これは障害を持っている方などにも最近の考え方の一つとなっている。
障害と考えるのではなく一つの個性であり、その人自信でありユニークな存在だと言える。そして、この考えを延長していくとLGBTはもちろん、男性と女性自体も一つのその人を表す個性の一つなのではと考えられる。
つまり、男性である自分と女性である人は、個性の一部に男性が含まれていて、個性の一部に女性が含まれていると考えられる。
結局、「男性」「女性」と括ってしまうこと時点でその人の個性を漠然としか捕らえられていないことになる。
代名詞をつけること時点で差別
多分、こんな考えは今までに何人もの人が発言して主張してきたことだと思うが、今夜駅のホームを登っている時に大きく納得することができた。
このように考えていくと、差別とはそのもの自体を大きな枠組みで括ってしまうこと自体が差別であることがよく理解できる。
極端な話、政治家、サラリーマン、夫、妻、など、その個人ではなく全体をまとめてしまった時点で差別が生まれてしまう。特に今回の男女というのは男性、女性と大きな枠組みで括ってしまうともう個性は全く見えず何も個別では評価できなくなってしまう。
今回の東京医科大の問題はやはり個人を採点したのではなく、その大きなくくりであるもの全体を一つの評価で採点してしまった所に大きな問題があるんだと思う。
差別をなくすことは無理
東京医科大の前で水を得た魚のように張り切っている共産党の皆さんには非常に悲しいお知らせになるかもしれないが、この考えをまとめていくと、そもそも差別をなくすことは絶対にむりだと言える。
なぜなら、常々このブログでも書いているが、養老孟司氏曰く人間の特徴としてある考えが、「=」を作ることだからである。
リンゴを2つ並べた時に人間はこれが「2つはリンゴ」だと理解でき「1+1=2」だと計算できる。しかし、これが動物になるとそれぞれのリンゴになる。どちらも違ったリンゴという捉え方である。
noriyasu-katano.hatenablog.com
つまり、人には同じ様なものを一つにまとめることができるのである。当たり前だと思うが自然界には同じものなど何一つない。性を決めている染色体がXXの方を女性にはなっているがそのほかの染色体が持っている遺伝子は人によって全く別物だと言える。
これを便宜上というか人間の脳の習慣上一つのくくりにしまっている。つまり人間である以上、大きな括りを作るし、それ自体が差別であるから、差別をなくすことは無理と言える
ではどうするのか、先にも述べた様に、ある事柄を考える場合、大きなくくりで判断・評価するのではなく、個性として判断・評価することを優先にする必要があると私は考える。