Noriyasu_Katano's blog

脳科学や量子力学、政治や戦争に関して、日々の感じた雑感を書いていきます。

酔って記憶を無くして気付いたこと

Drunk

先日友人と酒を飲んでいたら、気付いたら自宅のベットの上で寝ていた。飲み始めワインを数本飲み干したまでは覚えているが、その後お店をいつ出てどのように友人と別れて、どうやって帰って来たのか全く覚えていません。

洋服を着替えず、ベットの上で寝ていました。スッポリその間の記憶が抜けていたのです。一緒に飲んでいた友人に恐る恐る昨日のことを尋ねると、友人も全く覚えていないとのこと。何も事件が起きていなかったので一安心したのですが、この時にふと思ったのが、この間の自分は正気に戻った自分と同じ人物だったのだろうかという疑問です。

自己の形成が過去の記憶から作られるとしたら

今、冷静になってブログで振り返って見てもその間の記憶を思い出すことができません。完全に自分の意識では届かない記憶として保存されているのか、もしくは全く保存されていないのか。

しかし、事実として、電車を乗り継いで行かないといけない場所から無傷で帰って来て自宅のベットで睡眠をとっていました。つまり、自分で帰って来たか、もしくは誰かに連れられて来たのか。誰かに連れてこられたのであれば正気な奥さんには記憶として残っているはずです。宇宙人の仕業になすりつけさせることは簡単なのですが、多分、自分の足で帰って来た方が真実に近いと思います。

では、この記憶の無い期間はいったい自分は今の自分と同じだと言えるのでしょうか?

よく漫画やドラマとかで自己を形成するのは記憶だと言う前提で作られる物語があります。もし、本当に記憶が個人と言うものを形成しているのであれば、この記憶に残っていない期間の自分は自分と断言できるのでしょうか?

ビリーミリガンと同じ現象

このことを考える上で近いことがお酒を借りずに起きている人たちがいると思いました。それは統合失調症に悩まされている方達だと思います。昔でいう多重人格の方です。『24人のビリー・ミリガン』と言う本を数十年前に読んだことがあります。

ビリー・ミリガンと言う成人男性の人格の中に24人存在していた話です。この本の中で、人格が変わる際に起きる表現を「別の部屋のドアを開く」と言うように表現しています。

別の人格が表に出ているときは、それまで表に立っていたビリーと言う主の人格の記憶には全く残らない状態です。つまり、今回私が経験したことはこれに近い状態だったと言えると思いおます。

お店で呑んでいた時から、家で眠りに着くまでの間、友人と親しく話を続け、電車に揺られ夜道を帰って来て、ドアを開けて、階段を登り、ベットに倒れ込んだこの間は自分でありながら自分で無い存在だったと言えるのでは無いでしょうか。

自己を形成しているのは記憶ではない

この経験をして思ったのが自己を形成するのは記憶ではないと考えるようになりました。ちなみに、私自身は記憶を無くした経験は少ないですが、ここまで綺麗になくなるのは初めてです。

自分の中で植えつけられている記憶と言うのはあくまでも自分の中で残っているだろうと思い込んでいる記憶であり、記憶が全くなかったとしても自己(個人)としてはちゃんと作られているんだと思います。

記憶が今の自分を作るのではなく、自己というのもはもっと別のところにあり、記憶とはその自己が参照するものなのではないかと思います。今、自分の中に保存されている記憶自体は、自己が選択・選定・選別した選りすぐりの記憶しか保存されていなく、そこにしかアクセスできないようになっているような気がします。
それが良いものだけではなく、自分が意識できない無意識のレベルでそれは選定されるため、生命として必要な嫌な記憶も身を守る上で、選りすぐりの記憶の中にとどめてしまうんだと思います。
それらを参照することで自己をなんとなく形成しているように思えるが、実際は自己自体はそれに頼らなくても確実に存在しているんだろうと思います。

途中からわけがわからなくなってしまいました。