Noriyasu_Katano's blog

脳科学や量子力学、政治や戦争に関して、日々の感じた雑感を書いていきます。

 質よりも量で解決しようとするという事

Many

量の文化がはびこっている感じがする。組織に入るとどうしても、多忙な時期に「もっと人手が欲しい」と嘆くパターンになっている。しかし、これではいつまでたっても量を求めつづけてしまう。

マッキンゼーの伊賀氏が書いた「生産性」はそんな考えを真っ向から否定する。

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの

 

 気になっていた本で、ブックオフで700円だったから購入した。

 「大は小を兼ねる」という考え

いつの頃からかわからないけど、なんとなく「大は小を兼ねる」考えがはびこっているような気がする。確かに、一見効率が良い考えなんだと思うが、よくよく考えると無駄が多い。よく耳にするのが、「面倒だから、多めに買っておこう」という言葉。花見やBBQとかで、紙皿を買う時とか、商品の前でいちいちくる人数を数えているのが面倒だから、とりあえず、多めに買っておけばなんとかなるだろうという事だ。

この考えが日本中のあちこちであるような気がしている。もちろん、職場でもよくある話だ。仕事が多くなってくると、各自の仕事の質を問うよりも先に量での解決を考えてしまう。確かに、手っ取り早い解決方法で、さらに、誰も気づつける事がない。

仕事の質を疑ってしまうと、いつも残業してる人の作業内容を疑う事になる。だから、新しく人を入れて作業してもらった方が、その人の頑張りや評価を落とさず、仕事量をこなせる事になる。

しかし、これが非常に非効率なんだと最近つくづく感じる。

長い者が一番厄介

結局、人を入れてその人がすぐに働けるようになることは、皆無に等しい。これが有能な中途であっても同じことだ。ましてや業務委託でも同じことが言える。どんなに有能だったとしても会社には文化が必ず存在する、同じ業界、同じ分野であったとしてもその会社によって業務は多少違う。

どうしても中にいる人たちは、「同じ業界で分野も同じなら、できるでしょ」と考える。雇う側としては、同業種の同分野の環境に触れる機会がないため、他の畑は青く見えてしまい、さらに、自分の畑の粗がよくわかってしまう。そのため、「外の素晴らしいところから来た人なら、うちの仕事なんて簡単だろう」と思い込んでしまう。

つまり、外の人を取り入れ、手を増やすことが効率性を向上するための近道だと勘違いしてしまうことになる。『生産性』の本でも取り上げているのは、量で解決するのではなく質をどこまで向上できるかという点である。

『生産性』で言っていること

はじめに「生産性とは」から始まる。これは、いたって簡単である。最終的に出来上がる物に対してどれだけ投資したかだ。つまり、カップラーメンは、3分という時間と、お湯を投資している。しかし、本格的なラーメンだと、手間は全然違う。それぞれかけた時間や手間と、出来上がった物がどれだけ美味しかったのかにより生産性が良いか悪いかわかる。

結局、残業を遅くまでしても、その労働に対して出来上がって来た内容が見合ってなければ生産性が悪いってことになる。残業自体が悪いのではなく、かけた時間に対してのアウトプットが良いか悪いかだ。アウトプットの良し悪しも、それほど問題ではない。粗悪なアウトプットでも5分で作ったのなら、十分生産性が高いと言える。

前回投稿したハッカソンなどはまさにこれが重要だ。

noriyasu-katano.hatenablog.com

人の手間暇、時間をかけるのが美徳とされる文化

なぜか日本人が好きなものに「人の温もり」や「手間暇かけました」的なことがある。これほど生産性の悪いことはないとつくづく思う。特に仕事の場でこの考えで押し切ろうとするのが理解できない。

例えばよく若手社員あるのが、リストなどのチェックをしている時に「慎重にやるために、一つ一つ目で確認しました。」と言うセリフがある。これは全く慎重さにかけていると言わざるおえない。このリストが多ければ多いほど、慎重でなくなる。

人の目など全くあてにできない。もっと言うと人のチェックなど全くあてにできない。チェックなどなんらかのチェック方法を定め、そのチェック方法に基づきコンピューターにやらした方が、どれほど慎重だろうか。

なぜか、日本人は人の手間や時間などを、とても素晴らしく正確だと信じている傾向が強い。とても能天気な人種であることを痛感する。

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの