Noriyasu_Katano's blog

脳科学や量子力学、政治や戦争に関して、日々の感じた雑感を書いていきます。

課題が提供される世の中

Problems

前回の投稿で安宅氏の話を出しました。そのセッションでも語られていたのですが、日本人学生がプリントがある前提で問題を解いているというような話がありました。

つまり、学校の先生がプリントを用意して、その問題に答えていく方式です。日本の初等教育ではまさにこれが基本中の基本で授業が進みます。うちの息子も、このプリント形式で一喜一憂しています。

日本をダメにする日本の初等教育

しかし、これは人間をダメにする教育だと言えます。どういうことかというとこのことは課題や問題自体が誰かによって作られていることになり、それを解決することから始まっているのです。つまり、課題が用意されてしまっていると言えます。

そのことに慣れると、課題自体を見つけられなくなってきます。世の中の大半の問題は問題自体見つかっていないケースがあります。

私が会社で常に思うのは、見つかった問題はそれほど問題ではないと常に思っています。問題が顕在化しているのであれば、その問題を解決すれば良い話で、問題は時間と思考を費やせば解決されることはわかりきっています。重要なことは問題を顕在化させることだと考えています。

しかし、プリント教育で慣れてしまうと問題を見つけること自体ができなくなります。つまり日本をダメにしている教育だと言えます。

トランプ大統領から豊洲移転までの報道のダメさ

これが顕著に現れるのが、日本の報道です。最近のトランプ大統領に振り回された日本メディアなどもまさにその事を表しています。トランプ氏の難民問題など、トランプ氏が悪いものおかしい存在という前提で問題が作られているため、誰もこの根本的な課題を見つけることができません。そもそも「トランプ氏自体悪者なんだっけ?」ということ問題自体が抜けてしまっています。

豊洲問題などもそうです。汚染水が出たこと自体が全ておかしいという前提で課題が突きつけられていますが、汚染水の濃度や安全基準自体問題があるのではと話に上がらない。本当に害があるんだっけ?というような根本の問題を考えさせない。

これが意図的なのか、そうでないのか真意はわかりませんが、考えなければいけないのは国民一人ひとりに考える余地、材料を持たせることだと思います。

問題になること自体は問題

この根本的な原因はなんなのかを探ると、多分、日本人の根本的な精神に関わってくるのではないかと思います。つまり、日本人のどこかに問題になること自体が問題だと感じているところがあるように思います。問題をひた隠しにする文化があり、それが進化しているのではないかと思います。

占領期 の本の中でも当時東久邇首相は当時日本軍が負けた理由にもの言えない風通しの悪い状況が日本にあった事を指摘しています。これは戦時中も同じです。上長に対して、意見を言えない状態で、上長の機嫌が全ての世界だったことは間違いないと思います。今でも同じよう状況は教育現場だけではなく職場でも起きていると思います。

多分、この根本にあるのは、上長が怖いというのも中にはあると思いますが、多くには意見を唱えるとめんどくさいことになるから言わないでおこうという、情報の出しわけをしているんだと思います。

これが、初等教育になると、子供に原理原則を教えても理解できないから、問題を提出して手法だけを覚えさせることが重要になっているんだと思います。つまり、情報の出しわけを自然と身につけているんだと感じます。

これは、農民と武士の差別が長くあったからなのか、「殿様に何か言っても通じない」文化なのかもしれません。

間違ったことに対しての恐れ

しかし、情報の出しわけ自体はそれほど悪いことではなく、孫子の兵法などにも情報を的確に出し分けることは戦場において重要だと考えられています。

あまり理解に乏しい人に、重要な事を言ってしまい、それが下手に広まってうまく行かない事も考えられるので、人を選んで情報を出し分けることは重要になります。問題は、情報を出す基準や出す相手を選定する判断力なんだと思おいます。こいつにはここまで言っていいなどを判断する力や知識がないんだと思います。

これがなぜ起きるのか、私なりに解釈すると、これは間違った経験が多すぎるから情報を判断する力が失っているか、もしくは、情報を出さなすぎる環境にいたからだと思います。つまり、情報を出すことで咎められたり、その事で怒られたりと恐怖につながった経験が多いため、情報をいつ誰にどのように出せば良いのかわからない文化なんだと思います。

では、なぜ怒られるのか、これは間違いや意見を述べられた時に自分が間違ったとおもわれる事に対して恐れがあるんだと思います。特に地位が高い人に意見を言ったりした場合、その人自体が間違っていると周囲から思われてしまう、だから言われた本人はその意見の真意よりもその行為自体を否定することになります。

まとめ

話が飛んでしまったので、まとめます。つまり、問題を問題だという意見自体が、周囲から否定的に見られる原因になるため、その意見自体を否定することになる。そうすると問題提起することが消極的になり、効果的に情報の出しわけをしようと思うようになる。しかし、情報の出しわけ自体あまり慣れていないので、どう出していいかわからない。だから、間違った問題提起の仕方をして、間違った部分だけしか情報を出さなくなる。効率的に情報を出しわけできるようにプリント教材を使った教育になり、そもそも考える力自体失っているのではないかという推測であります。

和を重んじる民族性だからこそ、その特徴が足かせになってしまっている点でもあるのかもしれません。

こんな事を偉そうに書いている私ですが、結局今日もプリント教材で息子に教えています。