最近、自分が「哲学ゾンビ」だという事に気づかされる。哲学ゾンビとは、オーストラリアのデビット・チャーマーズによって有名になったぽい。映画のゾンビとは全く異なり、外見は普通の人と全く変わらない、哲学者たちが仮想するゾンビで、医学的にも心理学的テストにも普通の人間と変わらないが、普通の人間と違うのが意識がないだけ。
この漫画を読むとなんとなくわかる
最近、人間はみんな哲学ゾンビだと思うようになった。自然界(人間も含む)が効率的な流れの中で生きているとすると、その流れに支配されている意識とは何なのか、改めて疑問に思い始めてきた。
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「意識はいつ生まれるのか」を読んで意識について調べてみた。
ペンローズの唱える量子でできているような話は出てこないが、意識そのものを表すための手段がよくわかった。結果的に本書では答えが出ていないが、ただ、意識自体がこれほど具現化させるが難しいことがよく分かる。
人間の活動のほとんどは小脳で解決される。ロボットの多くはこの小脳の動きを真似ることで精一杯になっている。ちょっと遠いマグカップを手で取ることや、2速歩行で歩行すること、心臓を動かすこと、何かものに焦点を当てること。すべてが小脳によって補われていて、私たちはそれを全て無意識に行っている。
つまり、日常の行動の9割以上は小脳で完結していると言っても過言ではないと思う。では、無意識ではない意識とは何なのか。寝ている人間の脳の活動は意識がない状態であり、起きている時は覚醒して意識がある状態である。2つ状態の脳の活動を比較すると、大差はない。寝ている時も脳は起きている時と同じくらいに活動していることが分かる。
結局、意識って薄っぺらい
そう考えると、私の行動全ては小脳によって動かされており、この動きを始める最初の段階にだけ意識が関与しているようなものではないかと思う。最初の数%の判断を行っているのが意識で、その判断基準を指し示しているのが過去の記憶、そして、その判断はその場その場の状況によって求められるだけのこと、つまり、哲学ゾンビで言うところの外界からの刺激に対する反応でしかないのではないかと思う。
意思と意識の違い
意識は意思とは違うような気がする。「自分の意思で人生を歩んできた」というような古臭い言いまわしがあるが、これが「自分の意識で人生を歩んできた」というのは変だ。ただ、なんとなく、意思は意識の集合体のようなもので、今までの細かい判断の積み重ねが意思としてなったような気がする。つまり、自分の中でのでっち上げの部分ではないだろうか。
こんなひねくれた考えをしていると、世の中のことがどうでもよくなってくる。意識自体が外界からの反射でしかなく、意思自体が過去の判断の積み重ねであるとすると、個人の持っている個性や意地みたいなものがバカらしくなってきてしまう。