友人のmixiで面白い事が書いてあった。
友人の日記には、たまに自分の事を「うち」と呼んでしまう人について書かれていた。
自分の事を「私」、「僕」、「うち」、「俺」などなど、代名詞で表現している。
たまに自分の事を名前で呼んでしまう人がいる。つまり、自分の表す代名詞が名前という事になる。
このような人は、単純に考えて、個人を表す名前という存在が、彼、彼女の中で代名詞にしか過ぎないと解釈する事ができる。
つまり、本来自分の事を表す名詞でなければならない名前が、彼(彼女)のなかで代名詞の役割もになっていることになる。
落語に「寿限無」という話がある。たぶんこのジュゲムは自分の事を名前で呼ばないだろう。自分を言い表すときに長過ぎて舌をかんでしまうかもしれないからだ。では、名前がなかったらどうなるだろうか?
小学生のころ持ち物に名前が書いてないと「ななしのゴンベイ」と名前を付けられ落とし物箱に入れられていた。れっきとした名前である。しかも、ある特定の誰かを表している。
つまり、なんらしかの形でその物に関して名前を付けてしまう。
そのなんらしかの表現が言葉である必要はない訳である。
一時期プリンスは陣の事を図形にして表現した。ラジオDJ泣かせの行動である。彼を音によって表現するためには長ったらしい表現をしなくてはならない。日本では「元プリンス」と言っていた。
まっ結局表現しづらくなったのか、元の「プリンス」にもどしている。
教育番組に「ルドルフとイッパイアッテナ」という番組がある。ルドルフという猫が街の番長野良猫イッパイアッテナとのお話だ。このイッパイアッテナ。カタカナで書くとイッパイアッテナだけど、ひらがなでは「いっぱいあってな」となる。(当たり前だが)初回のはなしでルドルフはイッパイアッテナにであう。ルドルフが「名前はなんていうの?」とたずねる。するとイッパイアッテナは自分の名前がいっぱいありすぎるので「いっぱいあってな」と言ってしまう。ルドルフはその事を名前だと勘違いして「イッパイアッテナ」になる。
かれは名前がありすぎて本人を識別するのはその関わる人それぞれの解釈にゆだねられる。社会の中での個人とは常に多方面の会社から成り立っているように解釈できる。
まっ名前がありすぎるのも問題だ。